2019/4/20
『ザ・インタビュー~トップランナーの肖像~ 中田久美×宮嶋泰子』
〈東京オリンピックまで 1年余り〉
〈メダルの期待を背負った 指揮官がいる〉
〈インタビュアーとも 古い付き合いだ〉
なんか こう 対面でお話 しっかりするのは
もう 20~30年ぶりぐらい じゃないですか。
(スタッフ)本当ですか? 多分 多分。
(スタッフ)あっ そうなんですね。 はい そうです そうですね はい。
(スタッフ)結構 あれですか やっぱり
そうですね。 シーズンに向けて 準備… はい。
スケジュール調整とかの 最初の段階。 はい。
でも これ オンエアする時 もう始まってますよね?
すいません…。 (スタッフ)確かにそうですね。
はい もう
失礼します。 (宮嶋)ああ~ どうも。
ご無沙汰してます。
もう むちゃくちゃご無沙汰…。
こんなね 2人で話をするなんて 計算したら25年くらい。
ですよね。 そうですよね。 うん。
お変わりなく元気そうで。
あなた もう 本当 大変な役を 今 ねえ?
ちょっと ちょっと 来てくださる。 なんですか?
ここ 見てくださいよ。
あれわかる? 今 建設中の…。 ああ はいはい。
東京オリンピックの選手村。 出来上がってますね。
いや~ まあ まだだけど あと1年ちょっと。
すごい でも 何回か 見には行ってるんですよ。
ええ。 すごい もう そのスピードがね…。
ねえ。 うん。
もう 本当 大体 大枠は出来てますものね。
そうですね~。
なんか ドキドキしちゃう 私。 私もです。
そっか~。
じゃあ ぜひ そこも含めて 今日はよろしくお願いします。
こちらこそ よろしくお願いします。
♬~
というふうに思いました。
〈2017年の就任以来 チーム強化にまい進している〉
〈自国開催でのメダル獲得は 至上命令といっていい〉
〈振り返れば史上最年少 15歳での代表入りだった〉
〈18歳の時 ロサンゼルスオリンピックで
司令塔として活躍…〉
(拍手と歓声)
(実況)セットカウント3対1
〈結果に納得できず リベンジを誓った〉
〈だが その後
2度のオリンピックに 挑んだものの
銅メダルにすら手が届かない〉
〈雪辱を果たせぬまま 現役を退いている〉
(実況)さあ イルマ
〈モデルや解説者を経て
指導者としてコートに戻るのは 2008年〉
〈病床にあった 父のひと言がきっかけだった〉
〈2012年
実業団チームの 監督に就任すると
1年目で5冠を達成する快挙〉
〈リーグ優勝3回〉
〈全日本選手権4連覇の 金字塔を打ち立てた〉
〈バレーボールに 懸けてきた半生〉
〈その素顔をのぞいてみたい〉
♬~
♬~
♬~
う~ん その…。
もう 無理だっていってるのに…。
…でしたっけ? 何? そうです。 そんな感じです。
だというふうに聞いていたので。
ああ~。
それは ちょっと
私は 自分で そんな…。
肩書 どうでもいいので。
いや 本当に忙しい中 今日 来てくださって
もう嬉しい限りです。 とんでもないです。
ありがとうございます。 ご無沙汰です。 ハハハハ…。
いや あの… 全日本監督に指名されました。
理事会で満場一致 はい。
満場一致だったですか? うん。
その時のお気持ちは? はい。
やっと来たかと。 ハハハハ…。
いや でも 正直 プレッシャーないんですか?
なんか 試合とか いっぱいあって
こう いろんな人たちと 対戦しなきゃいけないし。
みんな 中田くんが来たから
もう すぐ勝つんじゃないかって すぐ思うし…。
えっ? プレッシャーですか? ありますよ。
あります あります。
もう 久光の監督を やり始めてから…。
本当? はい。
えっ? 食べる事 忘れちゃうんですよね。
食べる事を忘れるくらい 何かに没頭してるって事?
何に没頭してるの?
それこそ 映像を見てて 時間 忘れちゃったりとか。
ああ~! 試合の映像とか 練習の映像とか見てて?
…とか あとは まあ チームの問題を解決するために
どういうふうに 持ってったらいいのかとか
あと 選手起用法だとか…
そこは すごい考えますね。
そうするとね なんにも 食べられなかったりする事が…。
おなか すかないの? おなか すかないんですよ。
ええ~?
まあ 食べるようには してるんですけど…。
それぐらい やっぱり こう 入っちゃうっていうか。
うわ~。 そりゃあ…。 ダメですね。
心配するでしょ? 周りの方も。 うん。
そこが やっぱり 日の丸の重さなんでしょうかね。
その… やっぱり…。
フラッグの重さなんだろうなって 思いますね。
フラッグの重さ? うん。
重い。 ハハハハ…。 重い。
あの… ちょっと バレーとのね 最初の… まあ なんか こう
いろんな事 聞きたいなと思うんですけど
あなたは 最初は バレーから 入ったわけじゃないんですよね?
スポーツの取っかかりは。
元々は 水泳をやろうと思ってて。
で それは おいくつの時でした?
小学校4年生とか 5年生ぐらいだったと思います。
本当に 週に何回か スイミングクラブ行ってて。
どんどん どんどん その記録を伸ばしてって
っていうような感じで。
…の中で もう 挫折しましたね。 なんで?
ハハハハ…。 ええ~!?
水泳は挫折です。 本当?
練習 キツかったの? キツかったですね。
でも スイミングクラブで…
まあ でも あの練習には
耐えられなかったですね。 やっぱりね。
なんでだろう? なんでだろう?
息 吸えないからじゃないですか? ああ~ そっか。
息継ぎが なんとなく こう うまく いかなかったみたいな?
もう嫌だと思って やめました。 すぐ やめました。
ああ そう。
〈1965年 東京に生まれる〉
〈9月3日に誕生したので クミ〉
〈中学に入り バレーと出会った〉
〈意外にも 当時は
それほど 夢中になれなかったそうだ〉
なんで バレーだったんですか?
母が ママさんバレー やっていたので。
なので その練習についていって
玉拾いしてたりとか うん。 へえ~。
…が きっかけですけど でも そんな バレーボール
本格的に 小学校の時 やったわけじゃないですし
地元の中学校でも。
でも じゃあ 練習がキツくて 水泳は挫折したけど
バレーはキツくなかった?
ハハハ…。 だから ほとんど
バレー部の練習にも 出てなかったですね。
すぐ 放課後 終わったら 帰っちゃうみたいな。
で 夏休みに その先輩が
わざわざ 私の家まで来てくれて
一緒に バレーボール 練習しようっていうふうに
誘ってくださり 嫌々…。
サボりだったの? そうなんです。
そうです そうです。 はい。
ええ~!? 意外な中田久美の…。
全然。 あっ 本当?
そこまで そんな こう 「バレーボール!」
っていう感じでも なかったんですよね。
でも なんか 試合に出れば たまに出してくれるんですよね。
そうすると なんか こう
自分のスパイクが 決まったりすると
ちょっと楽しくて。
…っていう もう すごく なんかアバウトな。
〈転機は 中学1年の終わりに訪れる〉
〈次世代の オリンピック選手
育成プロジェクトに 応募したのだ〉
〈チームを率いたのは
モントリオールで 日本を
金メダルに導いた名将
山田重雄〉
将来の日本選手を つくろうっていうので
あれ 「ロサンジェルス」って いうんでしたっけ?
「LAエンジェルス」ね。
あっ 「LAエンジェルス」 っていうんだ。
うん はい。 なるほど。
それを… 中学1年生の終わりに
たまたま それを本で見て 募集を見て…
電話したんですね。 母が電話したと思います。
でも 猛反対されたんですよ。
「絶対 無理だから やめなさい」って。
って言って 電話をかけて。
ちょっと待って ちょっと待って! バレーだってさ そんなに…
一生懸命やるタイプじゃ なかったわけじゃない?
これだけは譲れないって なんだったんですか?
まあ その時は
やっぱり モントリオールオリンピックで
女子バレーが金メダルを獲り
で その監督さんが
やっぱり つくる チームだったので
憧れ… すごい 憧れてましたね。
ああ そう。 はい。
当時… そう。 なんか
ものすごいブームだったじゃない アニメも。
その影響も もちろんあると思うし。
ねえ。 『アタックNo.1』。
『サインはV』と。 『サインはV』!
あれ 結構な人数 集まりましたよね?
700人ぐらい いましたかね。
そこに集まってくる子たちは もう
小学校から バレーボールやってたりとか
それこそ 全国大会に出たりとかする
選手たちの集まりだったので…。
と思いました。
そう。 で どうでした? いろんな人がいる中で
ちょっと やってみたりしたわけ?
何やったんですか?
その頃 身長 どのぐらいあったんですか?
168センチぐらいですかね。
あっ 高い。 中学1年生としては。
まあ 後ろのほうだと思いますけど。
山田先生から 直接お電話頂いて。
ふわ~! なんて?
「合格しましたんで ぜひ来てください」って言われて。
〈合格者7人の 狭き門を通った決め手は
最高到達点2メートル86という
ずばぬけたジャンプ力〉
〈親元を離れ
合宿生活で バレーづけの毎日を送った〉
♬~
〈曇りなき指導者の目で 才能が育まれ
中学3年で全日本入り〉
〈史上最年少で 代表選手となった中田を
宮嶋は この頃から取材している〉
〈山田監督に命じられた
アタッカーからセッターへの コンバートも 吉と出た〉
〈資質は十分すぎるほどだった〉
全日本 入ったあとに
「セッターをやりなさい」 っていうふうに ある日 突然。
ねえ。 なんで セッターだったんだろう?
今 考えると… やっぱり 大型セッターを
多分 先生は探していたんだろうな というふうに思いますね。
大型と あと特徴としては 何か 思い当たるとこ あります?
あっ! 両利きね!
それは そうだわ。 はい。
ちょっと いいですか? 手…。
手? 手! この指の長さ!
見て これ。
すごい。 ちょっと 私ね もう恥ずかしいくらい これ…。
これ見て。 私 半分ぐらいしかない!
いや 本当。 すごいね。
手はね ちょっと大きいと思います。
そうですよね。
ああ そう。 当時…
こんな原稿を書いたな っていうのが…。
ありますか? うん。
「中田の手の中で ボールが生まれ変わる」っていう。
ハハッ! 本当ですか? ありがとうございます。
ああ 今 なんか 変な汗 出てきちゃった。
(2人の笑い)
ありがとうございます。
いや でも 本当 そんな感じだったですよ。
もう フォーン! って行くでしょ。 あれ びっくりしちゃって。
今までのセッターと全然違うなと 思って 見てたんですけど。
もう 周りの先輩方のおかげです。
あれは なんだったの? 何が他と違ってたのかしら?
ええ~? 何を心がけてたんですか? 一番。
いや… 最初ですか? 最初?
最初は もう だって 先輩方から
「もう 好きなように上げなさい」 って。
山田先生からも 「好きなように 上げていいから」っていうことで
もう 自分勝手に 自分のタイミングで…。
それを 先輩方が 合わせてくださってただけなので。
その頃は バレー 面白くなりだしました?
「あの山田監督のもとで!」って。
まあ いつも…。
そういった意味では
あっ このカーテンの向こうで
やっぱり プレーしたいなっていう 憧れはありましたね。
はあ~。 うん。
〈1984年 ロサンゼルスオリンピック〉
(実況)8回目のマッチポイント。
(実況)ん~! ブロック!
最後は 江上が ブロックで決めました!
〈日本中が沸く一方で
若き司令塔の胸中は複雑だった〉
結果は…。 ええ… はい。
本当に なんか…。
ああ そう? はい。
ここは なんとかって 思いましたけど
銅メダルっていう結果しか… 残せなくて。
非常に悔しいというか。 ねえ。
というか 普通 オリンピックだと 銅メダル獲っても
「あ~ よかったね よくやったね メダルだよ」って言うんだけど…。
あの当時は そうじゃなかったじゃ ないですか。 やっぱり。
バレーボールって 最初から金なんだものね。
つらいわよね。 つらいですね。
でも やっぱり金メダル獲る人って すごいですね。
ああ そう? うん。
何が違う?
やっぱりね やっぱり…。
魔女か。 魔女です。
魔女先輩たちは… すごくないですか?
一人一人のキャラが立ってる。 すごいじゃないですか。
ああいうふうじゃないと
世界一って なれないんだなっていう。
やっぱり すごいなって。
うん 選手としても そうだし
メンタルもそうだし…。
人間的にも やっぱりね… すごい。
なんか あの時… 表彰式。
表彰台で メダルをかけてもらって
そのあと…。
ハハハッ。
すぐ外しましたね。 うん。
〈1986年 突然の悲劇に見舞われる〉
〈ソウルオリンピックを 2年後に控えた 大事な時期に
練習中 膝をひねって じん帯断裂〉
〈選手生命も脅かしかねない 大怪我だった〉
〈再起不能とまで ささやかれた 天才セッターを
宮嶋は 何度も見舞っていた〉
「(バレーの試合の実況)」
怪我をされて ちょうど その時に
私は 本当 1年間 ず~っと取材をさせて頂いて
もう大変な姿を 記録させて頂いたんだけれど…。
つらかったわよね あの時。
いや だって 宮嶋さん 毎日 来るんだもん。
(一同 笑い)
それが嫌だった? ごめんなさいね。
もう 頑張ってるのに
まだ頑張らなきゃいけないのか って思いましたね。
あっ 本当?
うん。 その…。
う~ん。 でも 私 頑張ってるんだけどなとか
すごい いろんな事を…。
だって 膝って ある意味
バレーボールにとって とっても重要じゃないですか。
膝を… じん帯を 2本 切っちゃったんでしょ?
そうですね はい。
大変な怪我でしょ。 大怪我ですよね。
まあ 今はね 前十字とか切っても
復帰されてるアスリート いらっしゃいますけど
あの… その時はね もう 再起不能っていうふうに言われて
無理だっていうふうに 言われていた時代だったので…。
でもね 私 入院してて
宮嶋さんが すごい一生懸命 こう 来てくださった時に
宮嶋さんが なんか…。
って言ったんです 私に。
私はね その言葉を聞いた時に
すごい考えて…。
「どうしよう!?」って
「何 言ってんだろう?」って 思ったんですね。
あのメンタル… っていうか精神状態で
その言葉を バーンって ぶつけられた時に
それを エネルギーにしていく事とか
その意図だとか…。
でも 宮嶋さんから見たら 私は絶対 子供で。
でも 「大人になれ」っていう事が どういう事なのかが
全然 結びつかなくて。
「大人になりなさいよ」って
何を思って言ったのかな? っていう…。
いや~ 多分… でも 二十歳ですから。 ちょうど。
ちょうど二十歳? はい。
責任を… 私は あの時 結論的には
宮嶋さんが 「大人になりなさいよ」 って言うのをずっと考えてて
思ったのは やっぱり…。
っていう事なのかな
っていう事で落ち着いたんですよ。 ほえ~。
何が どう 一番 変わったんですか?
やっぱり こう…
物事を… やっぱり しっかりと
認めるとか 受け入れるとか
人を尊重するとか… う~ん。
やっぱり 相手の事を まず考えるようになりましたね。
ああ そう。 うん。
だから そういった意味では
宮嶋さんの 「大人になりなさい」 っていう言葉も
すごく大きな ヒントだったのかなって。
いや… 私 もう 冷や汗 出てます。 本当に もう。
いやいや…。 とんでもない事言っちゃったと…。
やっぱり覚えてなかったですか。
絶対 覚えてないだろうなと 思ったんです。
〈懸命なリハビリのかいあって
10カ月後 中田は全日本に復帰する〉
(ブザー)
(拍手と歓声)
〈コートを離れていた ブランクの代償は
しかし あまりに大きかった〉
10カ月後ぐらいに結局 復帰して… ジャパンカップで復帰して…。
「無理だ」って。 その なんか もう…。
動かない。
動かない。 目は反応… ボールに対しての反応するけど
体の反応が遅いので
タイミング…。
そういう微妙なズレが やっぱり あって。
で そのズレが 結局 無理になってくるので…。
ああ 脳で こう イメージしてるのと
全然 違うふうになってる? うん。
でも ボールを捉える目は 全然 劣ってないっていうか
衰えてないんですけど
反応して 動かせないっていう。
そのズレが すごく自分の中で大きくて。
すごい落ち込んだのを覚えてます。
ああ そう。 はい。
だけど 辞めなかったの?
うん。 山田先生に また言われて。
その大会… まあ フルには 出場出来なかったんですけど
一応 まあ 復帰戦という事で
まあ その大会 終わって。
で 次の日の新聞で
まあ 私が復帰したと。
みたいな。 いや 逆… 逆で。
要するに 山田先生は 新聞記者に向かって
「ソウルは 中田でいきます」
みたいな事を おっしゃったのかしらね?
わかんないですね~。
で 私 次の日に体育館で
そのスポーツ紙を読んでて
固まっちゃったんですね こう…。
「あっ こうやって見られてんだ」 って。
で その固まってる姿を たまたま 先生に見られて
まあ この なんか…。
「ああ そう来るんだ」 と思って。
それでも やっぱり いろいろ
どういう事なんだろうなって
そこから なんか いろいろ 考えましたね また。
何が足りないのかっていう
どうすれば強く… 強くなるってなんなんだろうって。
〈前回のロサンゼルス
銅メダルに 涙をのんだ中田は
セッターとして チームを引っ張る〉
〈だが 結果は 3位決定戦で 中国にストレート負け〉
〈4位だった〉
〈3度目の出場は 92年のバルセロナだ〉
〈予選を勝ち抜き 迎えた準々決勝〉
〈ブラジルに敗れ 5位に終わる〉
〈大会後 27歳で 全日本のユニホームを脱ぎ
一つの区切りをつけた〉
結果的には だから ソウルが4位。 メダルを逃し
そして そのあと もうちょっと 頑張ろうと思って行った
バルセロナが5位。
こう 思い返すと12年でしょ? その全日本で ずっとやってたの。
そうですね。 長い長い。
こんな人 いなかったでしょ? 今まで ねえ。
まあ 3回 出たのは 多分 私が一番最初なので。
ですよね。 はい。
12年間の全日本の生活
全日本代表として
これは 自分では どう評価してますか?
これ以上 やれって言われたら 出来なかったと思います。
それぐらい 自分の中では 真剣に取り組んできた
バレーボール人生だった とは思いますけど。
怪我する前から やってみたい… ですね。
うん でも 怪我したから 今があるんだろうと思うし
怪我してなかったら もっと早く やめてたかもしれないので。
もう 今頃 バレーボールと 縁切ってるかもしれない?
そうですね。
だから まあ 最高のバレーボール人生 だったのかなと思いますけど。
選手としてですよ。
いや もう…。
〈引退後 176センチの長身は モデルとして 輝きを帯びる〉
〈ファッションの世界も
それなり 苦労が多かったそうだ〉
ファッションモデルみたいなのを されてた…?
ショーにはね 出てたんですよ。 ですよね?
ファッションの ショーのモデルをするって
すごいなって 私 思ったんですけど。
面白かったですよ。 あっ そう。
はい。 バンバン落とされて。 えっ? なあに そのバンバン?
その なんでしょう… オーディションじゃないですけど
そういうのに 行くじゃないですか。
でも 落とされる事のほうが やっぱり 多かったし…。
あっ そう…。
面白かったです。 1日で…。
その 着替える量が すごくて。 1回のショーとかで。
それで こう… こうやって 歩いていくわけだ。
もう 足痛いしみたいな。 足痛し。
足痛いし。 ボール あったほうが楽みたいな?
うん。 バレーシューズのほうが 全然 楽だなっていう…。
そうよね。 今までバレーシューズしか 履いてないんですものね。
こんなヒール 履いて? はい。 慣れない… なんかね。
大変ですよね。
〈スポーツキャスターでも おなじみだった中田は
1度 生放送で やらかしている〉
〈アテネ出場を決めた選手たちと
スポーツニュースで共演した時
浮かれて はしゃぐ後輩を
画面が VTRに切り替わってから 一喝〉
〈その声が マイクに拾われていたのだ〉
バレーボールって 結局 2000年に
全日本は オリンピックの出場権を 失うじゃないですか。
で そのあと 2004年 アテネで ようやく 出場権獲得するでしょ。
その時 なんか スタジオで
ものすごい事 おっしゃったでしょ?
ああ~ はいはい…。 出場権獲った時ね。
いや もう… なんでしょうね? あれ。
何? そうです。 そんな感じです。
「てめえら この野郎」 中田久美事件っていうのが
なんか あるそうだけど あの時は どんな心境だったんですか?
う~ん… すごく 私は その 解説の仕事をさせてもらってて
もちろん その…
オリンピックに行ってもらいたい っていう気持ちはあったし
その出場権を獲って 本当に嬉しかったんですね。
でも やっぱり 監督さんも 選手も…。
だというふうに聞いていたので
まあ あの はじけ方は ないんじゃないかなって…。
わかんなくは ないんですよ 全然ね。
でも そうやって なんか…
なんか はじけてる選手たち見ると ちょっと悲しくなったりとか…。
そうね。
そんな思いも やっぱり いろんな感情もあって
ちょっと なんか 納得いかず。
でも まあ なんだろう… ああいう 公の場で 私…。
それは ちょっと…。
ただ 強いバレー界で あってもらいたいな
っていう事は ずっと思ってました。
やっぱり 出れない ってなった時にね
選手の涙見るのも つらいし。
久美さんって すごく そういう ストレートに ものをおっしゃるから
さっきの 「てめえら この野郎」事件も
そうなんだけど 怖い人だっていうふうに
思われやすくないですか?
多分 思われてると思います。
ねえ。 でも 自分では
こんなに優しいのにと 思ってない?
思ってます。 それは思ってますよ。
いや… うん そうですね。
ただ あの事件が まあ… それも自分のまいたタネなので
もう それで いこうかなと。 そのキャラで?
そのキャラでいこうかなって 思ってます はい。 これからも。
〈指導者の道を歩み始めるのは 2008年〉
〈イタリアで プロチームのコーチとなる〉
〈11年ぶりに バレー界へ復帰したのは
がんと闘っていた 父のひと言がきっかけだった〉
父が まあ がんになり
で 最期をみとり
で なんか こう やり直そう
っていうふうに思ったのが きっかけですかね。
お父様の… じゃあ 病気と
お父様が亡くなられた事が 大きな…?
大きいと思います はい。
最期… まあ 父に…
なんだろう… うん…。
自分の人生 悔いない? って聞いたら
父が きっぱりと「ない」と。
その潔さに… 本当は もう いろんな…
葛藤は もちろんあったし その姿を見てたけども…。
そうやって 言葉で もう 言い切った父の姿を見た時に…。
と思ったんですね。
これは ちょっと考え直さなきゃ いけないなって。
じゃあ やらないで 本当に
悔いがないって言えるような 人生にしたいって思ったわけだ。
そういうふうに言える人生に しなきゃダメだなって。
っていう事を すごく その時 感じて。
それで まあ 1回リセットをし
もう1回 自分と やっぱり 向き合う時間を作り…
作るために イタリアに行きました。
イタリア。 セリエA。 プロですよ プロ!
まあ 仕事も 全部キャンセルし…。 ええ~。
はい。 そこの… 父が亡くなってから
次のアクションまでは すごい早かったですから 私。
あっ そう。 はい。
やっぱり やり残す事のないように
生きたいな っていう思いでしたね。
〈天才セッターと 呼ばれた中田は
指導者の資質も備えていた〉
〈イタリアから帰国し…〉
〈1年目で いきなり5冠達成という
女子リーグでは初の快挙を やってのける〉
〈強さの秘密は 選手との 近い距離感にあるようだ〉
〈久美さんと呼ばれる間柄が その証しだろう〉
結局 もう あなた5冠?
これ 女子チームとしては 今までないんでしょ
こんな素晴らしい成績は。 ないですね。
ちょっと かなり意識しました? 指導法は。
まあ 会社から
とにかく日本一っていう ミッションが
与えられていたので。
まあ 日本一は もちろんなんだけども
世界に通用する選手 っていうふうに考えた時には
相当 やっぱり 自分なりには考えましたね。
この選手たちに合う指導法 っていうのは
なんなのかとか… うん。
どういう方向性に 持ってったら…。
っていうのは すごく考えました。
相当 じゃあ 選手と コミュニケーション取った?
それは すごい…。
そうじゃなくても なんか もう私の現役時代なんて
ほとんど知らない選手たち ばっかりなので
もう怖い人っていう…。
ハハハ! あの事件以来? はいはい。
みんな もう こんなんなっちゃって。
うん。 もう そこからですから はい。
そこをどうやって 解いていってあげたらいいのかな
っていうところでは…。
一番 心掛けてたのは なんですか?
逆に距離感。 今もそうですけど。
入りすぎないっていう距離感と
あとは もう…。
まあ 自分が その… なんだろう…。
現役時代? う~ん…
監督っていう存在の在り方?
こういうとこで 助けてもらったけど
こういうところを もっと 助けてもらいたかったなとか…。
うん… いろんな いいところも悪いところも
見てきての 今なので…。
そういう なんか…
余分なっていうか それも 必要なんだと思うんですけど。
省けるところは 省いてあげたいな
っていうふうには思いますね。
〈2017年 Vプレミアリーグでの 実績が買われ
日本代表の監督を任された〉
〈就任以来 監督でありながら
細かく指導しないという スタイルを貫いている〉
〈選手に考えさせ 能力を引き出すのが狙いだ〉
なんか 聞くところによると 中田さんは
「こうしなさい ああしなさい」って
細かい指示は出さないって 聞いたんですけど。
うん… 私が言ってる事は
全て 100パーセント 正解でもないし
う~ん どっちかって言うと…。
そこで アドバイス出来る事は しますけど… うん。
すごく選手にとっては 自分で考えないといけないから
いい日々のトレーニングに なりますよね?
うん やっぱり…。
で バレーボールって
結局 落としちゃいけないし ボールをね。
はいはい。 で 6人 入って
ネットっていう障害と ボールがあって
1つのボールに対して
同じ動きをするわけじゃ ないじゃないですか?
うん。 みんながバラバラ…。
でも バラバラなんだけど 1つの動きにならなきゃいけない
っていうところでは すごく…。
その指示どおりに動けるのも 一つの力だとは思うんですが…。
を持ってた選手のほうが 強いのかなって 最終的には。
それは 日本の 多分 武器だと思うんですね。
以心伝心 あうんの呼吸みたいな。 あうんの呼吸。
それは やっぱり日頃から
自分の存在意義だったりとか っていう事を
考えられる選手が…
バレーボールには 大事なのかなって。
〈2018年のシーズンは
アジア大会 4位 世界選手権 6位と
まずまずの成績だった〉
〈今 世界ランク 6位〉
〈オリンピックに向け
選手のモチベーションを あげる事に 力を注いでいる〉
あなたが 全日本の監督になってから
さまざまな試合で
あのブラジルに勝ったり あのセルビアに勝ったり
いい試合をね すごくいいところも あるじゃないですか。
こういうのは どうなんですか? 自分で。
う~ん… でも 負けたらダメだと思うんですよね。
だというふうには思ってるし。
う~ん…。
面白さを 追求してもらいたいなっていう。
そこに火がつけば
選手たちの その… エネルギーというか
モチベーションは もっと自信を持って
多分 試合に臨めるように なるのかなっていう
感じはしますけど。
勝たせてあげたいとか 楽しんでもらいたいとか
喜びをわかってもらいたいって そういう事をおっしゃるのは
すごく素敵だなって 思ったんですよね。
私は 自分で そんな…
監督じゃなくても 全然いいと思ってるので。
肩書 どうでもいいので。
うん… とにかく選手たちを
なんとか走らせたいっていう…。
はあ~。
すごく バレーボール界的に 言ってしまうとね
昔は そんなに たくさんの国が
バレーボール やってるわけじゃない。
そういう時代には まあ
金メダルも 日本が 獲れたかもしれないけれども…。
190センチ以上の女の子たちが バーッと並んで
すごく大変な時代に…
監督っていうものに なられたんだなと
その覚悟は 私も思いますよね。
そりゃそうですよ。 うん そこの中で頑張る選手は
いるわけじゃないですか。
この間 なんかの大会で 郎平さんと…。
あっ 郎平さんね 中国の。
今 ナショナルチームの 監督さんやってますけど。
郎平さんと話してて。
その… 「いや 中田…」 っつって言って。
やっぱり…。
選手が?
あの郎平が言うんだ? あの大きいのが。
「もうちょっと 小型化しようかなって
考えてるんだけど」 って言ってきたんですよ。
じゃあ 日本も 生きる道はある って思いますか?
私 ゼロじゃないと思います。
これで 2メートルの選手 見つけろってほうが
難しいじゃないですか。
これから まあ 東京オリンピック
本当 選手村も もうね 出来てるし。
どうしよう?
もう来年ですよ? はい そうですね。
なんか 思いはあります?
いや… 思い?
思いは熱いですよ それは。 うん。
やっぱり その先のバレー界の事もあるし
しっかりと 責任を果たすしかないなって
思いますけどね。
やるって決めたんですから もう 全力でやります。
はい 一生懸命やるだけです。
応援してます。 よろしくお願いします。
セッターって 結局
アタッカーが こう 打ちやすいボールを上げる。
で アタッカーが生きるように ボールを上げてあげないと
ダメなわけじゃないですか。
要するに 人を生かす仕事なんだな っていうのを 今日 感じて。
この監督っていうのも
結局 選手たちを どうやって 生き生きと 生かしてあげるか。
中学校3年生の時に
「中田 君は今日からセッターだ」 って山田監督がおっしゃって
そこから ず~っと 2020東京への道は
続いているんだなっていうのを 感じました。
〈中田久美が 今 大切にしている言葉〉
はい。
「全力」です。
常に全力です。
いいかげんなので 基本的に人間が。
一生懸命 努力をする。 全力で頑張る。
全力でなければ
多分 自分らしさが 出ないと思います。
〈人々が抱く 中田のイメージは
この 二文字の上に 成り立っている〉