2019年6月5日水曜日

猶本光 2019/6/5



  偉大な先輩の足跡を追って「ドイツで勝負」 女子サッカー猶本光、25歳のいま
6/5(水) 8:31 配信


































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偉大な先輩の足跡を追って「ドイツで勝負」 女子サッカー猶本光、25歳のいま

2019FIFA女子ワールドカップ(W杯)フランス大会が6月7日から始まる。5月に発表された日本代表メンバー23人のリストに猶本光(なおもと・ひかる)(25)の名前はなかった。2011年ドイツ大会では日本代表が優勝。翌年、日本で行われたU- 20女子W杯で3位に入った「ヤングなでしこ」の中心メンバーとして、当時18歳だった猶本は大きな注目を集め、将来を嘱望された。あれから7年。ドイツ・SCフライブルクで選手生活を送る猶本の現在地とは――。(了戒美子/Yahoo!ニュース 特集編集部)
メンバー落選「心の準備はしていた」

5月12日。ブンデスリーガ最終節ヴェルダー・ブレーメン戦にフル出場した直後、猶本に代表選考について聞いた。
「(落選は)なんとなく予想もできてたから、(当落)両方の準備をしてましたね。もちろん入った時の準備はしていて、今はコンディション的にもすごいいいしメンバーに入ったらやれる自信もあるけど、外れる可能性もあるなと思っていました」

最終節ヴェルダー・ブレーメン戦でフル出場(写真:アフロ)
昨年11月、鳥取で行われた国際親善試合ノルウェー戦に臨む日本代表の合宿メンバーには招集された。だが試合ではベンチ外。翌日のガイナーレ鳥取U-18戦に出場しただけだった。今年4月の欧州遠征では、フランス戦で出場なし。ドイツ戦では終盤83分からの途中出場と、代表での試合出場機会は限られていた。そうした状況から、自分が当落線上にいるのだろうと、本人も想像していた。


猶本は2018年の夏、浦和レッズレディースからドイツ・ブンデスリーガ1部のSCフライブルクに移籍した。W杯1年前の移籍は、日本代表選出へのアピールという意味ではリスクかもしれないと、周囲から指摘する声もあった。
日本の国内リーグに比べてレギュラー争いは厳しい。実際、先発から遠ざかる時期もあった。またテレビ放映や動画配信が豊富な男子の海外リーグと違い、女子は試合を日本から観戦することが難しい。日本代表の関係者にプレーを見せる機会自体が減った。
「もし日本にいてW杯メンバーに入ってなかったら今よりショックだったかもしれないけど、やっぱりヨーロッパでプレーして評価されるっていうのがすごく楽しい。勝負してる。成長を感じたシーズンでした」


「ヤングなでしこ」で対戦 ドイツに衝撃

猶本が大きく脚光を浴びたのは2012年、日本で行われたU-20女子W杯だった。2011年にはフル代表の「なでしこジャパン」が女子W杯ドイツ大会で優勝し、翌年夏のロンドン五輪では銀メダルを獲得。女子サッカーへの関心は、かつてないほどに高まっていた。
その中で自国開催のU-20女子W杯。「ヤングなでしこ」と呼ばれ、次世代を担う若くてフレッシュな彼女たちには、アイドルへのような熱い視線が注がれた。当時、猶本は人気、実力ともに中心にいた。勝ち上がるごとに高まる注目の中で戦い、史上初となる銅メダル獲得に大きく貢献した。

2012年U-20 女子W杯で3位。「ヤングなでしこ」の主力として活躍した(写真:アフロスポーツ)
当の本人は周囲の喧騒よりも、準決勝で0−3で敗れたドイツの力に衝撃を受けた。フィジカルが強く、プレーのスピードも速い。すべてに太刀打ちできなかった。
そう心に誓ったのはこの時だった。2012年からの6シーズン半は浦和レッズレディースでプレーしながら、同時に筑波大学大学院で学び、博士前記課程(体育学専攻)を修了。18年夏にSCフライブルクに移籍し、ようやく念願のドイツ行きを果たした。
先輩「梢姉さん」の存在

海外移籍を決断したもう一つの理由は、同じ筑波大学出身の熊谷紗希、安藤梢の存在だ。2人とも女子W杯で世界一を経験し、熊谷はフランスのオリンピック・リヨンで、安藤はドイツの1.FFCフランクフルトで女子欧州チャンピオンズリーグ(CL)優勝も果たしている。ともに偉大な先輩だ。特に、猶本が「梢姉さん」と呼んで慕う安藤の存在は大きかった。
ドイツでプレーしていた安藤が、浦和に復帰したのは2017年6月のことだった。猶本と安藤は浦和でチームメートになり、筑波大学でもともにトレーニングをするようになった。
安藤梢(左から2人目)、熊谷紗希(右から2人目)らと(Twitterより)
「ドイツに行きたいというので、このままじゃ……っていう結構厳しい話もしました。最初はちょっと走らせてみても全然走れなかったんですよ。サッカーのセンスはあるんですけど、アスリートとしてのフィジカルの使い方が全然ダメだった。そこからでしたね」
体の使い方や走り方といった基礎的な面だけでなく、安藤は実に多岐にわたるアドバイスをした。例えば「自分で能動的に考える」ということ。
「筑波大学では、最初は『梢さんと同じトレーニングメニューを』って言ってたんですよね。でも、『そうじゃなくて、どうなりたいから何が必要なのか自分で考えろ』って言ったりして」

安藤のアドバイスがドイツでのトレーニングに生きている
「食事なんかも厳しく言ったんです。大学で栄養の専門家に食べたものの写真を見てもらう機会があるんですけど、一緒に見てたら『何これ?』っていう食の細さだったんですよ。これからサッカーと本気で向き合っていくなら、トレーニングが身になるような食事をしなきゃいけない。だから、その時はすぐ一緒にしゃぶしゃぶの食べ放題に行って。光が『野菜とってきます』とか言うから、『光は座ってろ』って言ってお肉をとってきて食べさせました」

(写真:森田直樹/アフロスポーツ)
楽しいけれどスパルタだ。安藤にとってもスポンジのようにどんどん吸収していく猶本が面白かったという。
「光は本気でこうなりたいっていうのがあったし、熱い子なんですよね。だから、言ったこともすぐやるし面白かった。最初は弟子みたいな感じだったけど、今はバディ(相棒)になりましたね。彼女は成長したし、逆に私が学ぶこともあるんです」
82年生まれの安藤と、94年生まれの猶本は単なる先輩後輩以上の関係になった。
「自分が目指してるところに梢さんがいる」

安藤との関係について聞くと、猶本はこう言って説明を始めた。
「守破離(しゅはり)って言う言葉があるじゃないですか」
守破離とは、武道や芸事などを身につけるプロセスを3段階に分けた言葉だ。最初の守は教えを守ること、破はその型を破り発展させること、離は師匠や教えから離れ自分の道を行くことだ。


「自分が目指してるところに梢さんがいるんです。W杯優勝、五輪銀メダル、CL優勝という結果を出している。そうなりたいって思う人が目の前にいるのに、だけど自分は別の方法でやりますっていうのは、ナンセンス。同じことをしてみたら、何か見えるんじゃないかと思ってめっちゃまねしました。一緒にご飯行っても、梢さんと同じメニューでって言ってたこともある。そこまで真似したら何が重要か見えてくるじゃないですか。そしたら破ることも離れることもできる。まず一回やってみないと。話を聞くだけだと限界ありません?」


謙虚さと合理性を追求した上での、模倣。身をもって体験することで感じる。それが猶本の学び方だった。
「自分がドイツに来て、最初の頃は初めての経験ばっかり。どうしたらいいか分からないときとかは、姉さんにいろいろ聞いてました。でも最近は結果が出てから伝えたりしてます」
教えを請う相手から、話を聞いてもらう相手へ。時間とともに、徐々に関係が変わっていることを猶本も感じている。


尊敬する先輩の歩んだ道をたどってのドイツ移籍。しかし、すぐに活躍とはいかなかった。練習合流から3日目、「自転車も漕ぐな」というドクターのストップがかかったのだ。日本で負った右足首のけがが悪化したようだった。
新生活をスタートさせた矢先のこと。日本に帰ってリハビリをすると、チームの一員として大幅に出遅れてしまう。精神的には厳しかったが、トレーニングできない時間を有効に使おうと考えを切り替えた。猶本はドイツ語学校の手配を急ぐようクラブに頼み、語学の習得に励んだ。


リハビリの面では、運に恵まれた。猶本の入団と同じタイミングで、クラブは日本人のフィジオセラピスト・重村優輝と契約していた。重村はクラブと契約しているため、猶本だけをケアするわけではない。それでも日本語が通じ、感覚を共有できる日本人がいることは猶本にとってプラスに働いた。
「体幹・患部外トレーニングを徹底して、再発予防に努めました。高強度のトレーニングでしたが、全てをポジティブに捉えていた。その姿勢はとても印象的でした」
リハビリは、孤独なものになりがちだ。この時は、重村の存在があっただけでなく、イェンス・ショイヤー監督やチームメートたちも猶本のリハビリを気にかけていたという。
「リハビリはメニューがハードで、監督は結構気にして見てくれていたみたいでした。チームメートも声を掛けてくれていた。普通はプレーをして、認めさせてチームに入っていくじゃないですか? でもそういうふうに迎え入れてくれたのはとてもありがたかったです」


リハビリを終え、第5節から第13節までは順調に先発出場した。その後、ウィンターブレイクを挟みプレシーズンの練習試合からサブに回された。この時は落ち込んだという。
「自分としては調子が良いと感じているのに出られない。もちろん試合に出てる子もすごくいいんですよ。これは代えてもらえないだろうなと思って」
監督から求められたのは6番、つまりボランチの動きだった。その中でも、短いパスを的確につなぐ、ポジションは崩さない、大きく前線に上がることはしない、などのプレーだ。
「葛藤して、これは求められてることだけをやってもだめだから、『言われてることだけやるのはもうやめた!』って。一回、自分のサッカーをやろうと思いました。どうせサブだし。そしたらめっちゃよくなりました」


猶本は自分のやりたいことと強みを考えた。いかに縦パスを入れるか、得点に関わるか、ドリブルなどでマークを外すかというリスクを取る攻撃的なプレーだ。それらをトライしたところ、監督に評価され、「今すぐには先発させられないけど、調子が上がっているからそのまま続けて」と声を掛けられた。
「日本だったら、『あの時はこう言いましたよね?』とか、監督、コーチに細かい話を聞きにいける。こっちでは言葉の問題以前にそういう細かい話は監督にしにいかない。だから結果を残すしか試合に出る術(すべ)がないんですよ。プレーで示すしかない」


結果的に、後半戦9試合中先発4試合、途中出場5試合。ドイツ杯決勝で出場機会がなかったことだけは悔しかったが、もがき、考え、試行錯誤し、最終節で先発を勝ち取った手応えは残った。
「自分で言うのもなんだけど、昨日はこれができて、今日はこれができたというのがずーっと積み重ねられてるので、毎日成長してて楽しいです」


フル出場した最終節ヴェルダー・ブレーメン戦後、W杯メンバー落選よりも悔しそうだったのは自身のプレーについてだった。
「今日、ゴールしたかったんですけどね。悔しいです。もやもやしてる。ずっと狙ってたんですけど取れなかった。やっぱり点の取れる中盤になりたいですね」


了戒美子(りょうかい・よしこ)
1975年生まれ。98年、日本女子大学文学部史学科卒。映像制作会社勤務を経て2003年から執筆活動を開始。11年3月11日からドイツ・デュッセルドルフを拠点として欧州サッカーをメインにスポーツ全般を取材。「スポルティーバ」(集英社)、「ナンバー」「ナンバーウェブ」(文藝春秋)などに寄稿している。近著に『内田篤人 悲痛と希望の3144日』(講談社)。








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